母校創立100年のあゆみについておもうこと
1 エリート校として誕生した旧制石巻中学
2 旧制中学から新制高校へ
単線型学校制度と「高校三原則」の方針
新制高校としての母校の歩み
3 男女共学化とコースの分化・多様なカリキュラム編成~より平等で民主的な教育へ
(1)男女共学化と共学の教育的メリット
(2)コースの分化と多様なカリキュラム編成の意義と落とし穴
(3)母校教育への期待~普通科高校の目的達成に必要な共通の学力保障を
4 母校ポスト百周年への期待~誇るべき校風と伝統の発展的継承を
石巻と鰐陵を追憶~60年目の特別寄稿
私の高校・大学時代と仕事雑感
京都大学大学院教育学研究科元教授
30回生 白石 裕
関西鰐陵同窓会会報令和3年号寄稿
関西鰐陵同窓会の皆様、いかがおすごしですか。私は30回生の白石です。関西に住んで約60年、この間、阪神淡路大震災、東日本大震災を経験し、さらには近年の豪雨や地震の多発や昨年来のコロナ感染症の蔓延に悩まされるなど、宮城県にゆかりをもつ同窓会の皆様と同じように、辛い経験と思いをしながら生活をしています。一方で石巻や女川など被災地の復興に向けての取組みに、人間の知恵と逞しさを見て感動をし、生きる元気をもらっています。
私は長年関西に住みながら皆様にお会いすることなく今日まできましたが、このたび同窓会長加藤様より近況報告の機会をいただきましたので、以下に、高校時代と大学時代をどのようにすごしたのか、またその後、どのような仕事をしてきたのか、近況報告を兼ねて簡単に自己紹介をします。現在は大阪府箕面市に住まいしています。
1 石巻高校時代のこと
旧制中学校と石巻高校の気風・校風
私が石高に入学した昭和30年から卒業する33年までの期間は、日本が戦後から復興を遂げ高度経済成長に舵を切ろうとしていた時期で、石巻やその周辺の農水産・商工業とも盛んで、地域全体が活気に満ちており、石高には県内の多くの中学校から、そして他府県からの入学者も少なくなかったように思います。旧制石巻中学は質実剛健、文武両道でならし、各界で活躍する人材を輩出した学校だったと聞いていましたが、入学した当時は、まさにそうした気風、校風を受け継いだような感のある学校で、勉学に、スポーツにと、県内有数の進学校でした。私は、石高へは石巻市稲井(当時は稲井村)の真野というところから自転車で通学しました。
戦後歴史学(古代・中世史学)の碩学~石母田正先輩のこと
当時、伯父から石中時代の同学年(あるいは下の学年)に後に歴史学者となった石母田正(いしもだしょう)さんが在学していたと聞きました。
石母田さんは日本の古代史・中世史を唯物史観の立場から説きおこし、戦後の歴史学会や思想に最も大きな影響を与えた一人といわれました。「古代史や中世史を専門に研究する歴史学者はいるが、日本の通史を研究する中で古代史と中世史を本格的に論究した学者は石母田さんしかいなかった」と今も言われています。石中、二高、東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、朝日新聞社、法政大学の教授として著名な学者だった。学問上の批判者からも「古今未曾有の大学者、超えることは至難の業」と賞賛されたほどの方です。石高の誇るべき先輩のお一人でしょう。お父様は石巻町長や市長を長く務めました。札幌で生まれ、石巻で育ちました。
パワフルでユニークな母校教師・恩師たちのこと
先生方は戦前の旧制大学等で鍛えられたパワフルでユニークな方が多く、たとえば、生徒とのやりとりを楽しむかのように問答法を取り入れて授業をしていた数学の菅原先生、自分の世界に浸りながら漢文の意味や背景を説明していた藤村先生、あるいは、ご自身の専門がよほど好きなのか、その楽しさを生徒に伝えようとしていた生物の湯本先生など、その授業光景は今でもありありと目に浮かびます。私はそうした刺激的な授業を楽しみながらも、数学が苦手なことから、勉学はそれなりに苦労しました。後年、大学の心理学の授業のなかで子どもの成長過程には「10歳の壁」というものがあり、知的発達の例として、小学校の時の分数ができないと、その後の中学校や高校で数学が苦手あるいは嫌いになるとの話を聞き私はそれだったのかと思い当たりました。ただ当時、勉学については「自分はできる」と、根拠のない妙な自信だけは持っていました。
多士済々で個性的な生徒たちと石高野球部黄金期~私の貴重な思い出の1頁
同学年の生徒は多士済々で個性的な人が多く、「ひとりわが道をいく」として自分を貫き通していた強者もおり、そうした個性的な生徒集団のなかで、いろいろなことを学んだと思っています。部活動については野球部に入部しました。監督の毛利さんは、戦後、エースとして石高を初めて甲子園に導いた凄い人です。甲子園では1回戦で九州の強豪校熊本工業と対戦し、(記憶に間違いがなければ)4対2のスコアで惜敗しています。憧れて入部した野球部でしたが、野球を続けるのは難しい事情が生じ、やむなく退部しました。その後はもっぱら野球部の応援です。私が3年生のときにはエース石垣君の縦に落ちるドロップが凄く、石高は県予選の準決勝で東北高と事実上の決勝戦といわれる試合をしました。結果は2対0(あるいは3対0)で負け、甲子園出場は叶いませんでしたが、そのときの野球部の戦いぶりは、私の青春の貴重な思い出の1ページです。
北上川や周辺の田園地帯の豊かな自然を満喫しながら、楽しく呑気にすごし、しかし確たる将来の進路が定まらないまま高校生活を終えた私でしたが、後から振り返ると、先生方の授業で刺激を受け、そして哲学者阿部次郎の『三太郎の日記』などを愛読しながら、人文・社会科学系の学問への興味を持ち、大学で学ぶ次のステップを模索していた、よくいえば、モラトリアム(猶予期間)の時期だったのかなと思います。
2 京都大学の学生・院生のときのこと
同じ年に京大へ入学した久能均さん(鰐陵34回)のこと
高校卒業後、私大に1年間在学しましたが、再度大学進学を目指し、苦手の数学を基礎から学びなおすなどして受験勉強をしました。志望先を哲学・社会学・心理学の分野で著名な教授がいる京都大学教育学部に定め、幸い入試に合格したので、京都で学生生活を送ることになりました。同じ年に高校で1年後輩の久能均さんが農学部に入学しています。当時は石巻から「箱根の関」を越えて関西の大学に入学する人は少なかったようでしたが、同志社大学にも石高の先輩がいることが分かり関西にも同窓生が結構いるのだと心強く思いました。久能均さんは後に、三重大学農学部(後の生物資源学部)の教授として着任しています。
京大入学時の総長は解剖学の権威といわれた平沢興さんでしたが、総長祝辞で「自分は大学の授業にほとんど出席せず、独学で勉強した」と、あたかも新入生に独学の勧めを説くような話をされ、これが京大かと痛烈な印象をもちました。また、知り合った同学年の学生のなかには、高校時代にライプニッツの理論を勉強していたという工学部の学生や経済学の理論を滔々と話す経済学部学生などがいて、すでに大学レベルの勉強をしていた学生が少なくなかったのも新鮮な驚きでした。
独創的な研究を尊ぶ自由な学風の中で、有意義で思い出深い生活送る
しかし、入学後間もなくして、第一次安保闘争が起こり、とりわけ学生運動が活発だった京大ではデモ、ストの連続で、授業もたびたび中止になりました。安保闘争は、石巻から「上洛」した私には強烈な経験でしたが、学生有志による社会科学の学習会ではマルクスなどの唯物論・唯物史観を学びました。唯物論・唯物史観は社会科学を研究するうえで避けて通れない理論なので、学習会での学びは後々につながるものとなりました。
こうした経験もあって学部では哲学ではなく、国家と教育との関係を考察する教育行政学を専攻し、その関係を大学院、そしてそれ以降の研究の基本的考察課題としています。
本庶佑教授と同じ時代を京大で過ごし、学問の自由や大学の自治の大切さ学ぶ
京大は独創的な研究を尊ぶ自由な学風の大学、それゆえにノーベル賞受賞者を輩出する大学として知られています。私の限られた経験からも学内では自由で独創的な発想を面白がり、誰が何を研究しようがお構いなし、その人の自由に任せるというような気風がありました。ちなみに、私はノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑教授と同じ年(昭和35年)に京大に入学しましたが、新聞紙上などで学問の自由や大学の自治を主張している本庶さんの姿を見ると、本庶さんは京大の自由な学風の伝道者に見えました。
いずれにせよ、生来の呑気者で何事をするのに時間がかかる私には、マイペースで学習・研究をし、政治学や法学、経済学など他領域の学問を自由に学ぶことができた、そうした京大の学風が合っていたようで、有意義で思い出深い学生生活を送ることができました。
3 就職・留学・教育研究のこと
東京都庁入職、米国ミネソタ大学院、京都大学教育学部、早稲田大学
大学院修士課程を修了後、東京都教育庁に入職し、3年間勤めましたが、米国留学のため退職しました。そしてフルブライト留学生として米国のミネソタ大学大学院で米国の学校財政制度や教育法学などを学び、帰国後、京都大学教育学部の助手になりました。それ以降、京都大学医療技術短期大学(現京都大学医学部人間健康科学科)助教授、京都大学教育学部助教授、同大学教授、早稲田大学特任教授などを歴任し、約45年の長きにわたって大学教員を務めてきました。
櫻谷哲夫(鰐陵33回生)京大農学部教授との出会いや海外研究活動の思い出
京大在職のときには、農学部に石高出身の櫻谷哲夫さんが教授として在任されていたことを知り、思わぬ出会いを喜び、しばし故郷談義をしたことがあります。
京大では講義や演習などの授業、学生の論文指導、学内諸委員会の出席と、大学教員が通常こなす役割をしていました。学生が優秀で、白石教官に任せておけないとばかり自学自習をしてくれましたので、研究する時間も十分ありました。この間、文部省在外研究員としてあるいはフルブライト在外研究員として、カルフォルニア大学バークレー校やメリーランド大学カレッジパーク校でアメリカ学校財政制度や訴訟について研究しました。また、ストックホルム、オスロ、プラハで逐年ごとに開かれた「生涯学習」に関するOECDの会議に日本の専門家として出席し、日本の生涯学習について報告書を提出したこともあります。
また、早稲田大学在職中にはオックスフォード大学での国際学術会議に参加するなど、大学教員ならではの海外での貴重な経験もしました。
「教育の機会を財政的にどう保障し、救済していくか」を追求した私の研究
私の研究は、米国留学で学んだことを下敷きにして、経済的に困窮で、また人種的にも差別を受けているアフリカ糸アメリカ人などマイノリティの子どもたちの教育の機会を財政的にどう保障し、救済していくかを、訴訟事例を基にして法理の面から考察することを目的にしています。
アメリカは「訴訟の国」と言われるほど訴訟が多い国ですが、教育についても例外でなく、アメリカの歴史を変えるような画期的な判決も多く出ています。アフリカ系アメリカ人に対する人種差別は、奴隷制度の残滓、偏見、政治的経済的権力の力関係その他と複合的要因が複雑に絡み合っていて解決がきわめて難しい問題です。そこでマイノリティの権利を守り、民主主義の砦ともいうべき裁判所に訴え、法律上の差別をなくそうとするわけです。
合衆国最高裁判所の正面入口の上部欄干には「法の下の平等な正義」(Equal Justice Under Law)という言葉が掲げられています。教育の場合、平等な正義とは貧富の差、人種・信条・性別の違いを問わず、すべての子どもに平等な機会を与えることです。では平等な機会とは何かといえば、判決は、入り口の平等から結果の平等へ、量的平等から質的平等へとその内容を変遷させています。私の研究は、この判決の変遷を追究したものです。そしてその成果をまとめて「アメリカ学校財政制度訴訟の法理の研究」という題名で博士論文を執筆しました。では教育の質とは何かについては考察中ですが、時間切れで研究は未完のまま終わりそうです。
4 大学教員の特権・醍醐味
青年たちに向き合うのは心の躍ること~幸せだった大学での教育研究
京大を退職後は、早稲田大学(教育・総合科学学術院特任教授)、千里金蘭大学(児童学科教授)、畿央大学(教育学部長・研究科長)と、いくつかの大学で教育研究に携わることができたのは本当に有難いことでした。そのたびごとに、授業担当の関係から、早稲田では教育に関わる政治思想の勉強をし、千里金蘭・畿央大学では教育学を勉強し直すなど、私自身の成長を図ることができました。
大学教員生活で、何がもっとも幸せだったのかと問われれば、やはり青年に接し、青年の教育に携わることができたことだと答えます。知的好奇心に燃え、ひたむきで前を向いて進む青年たちに向き合うのは心の躍ることです。彼らからいろいろなことを教えてもらい、元気をもらいました。それは大学教員の特権であり、醍醐味といえるでしょう。箕面市の教育委員をしていたとき、教育委員会所属の指導主事の多くの方が、「学校現場に戻りたい」と言っていましたが、おそらく私が学生に抱いた気持ちと同じなのでは、と思っています。
5 生活・趣味のこと、母校への期待
石巻っ子のこれから
大学教師の仕事をやめてから約5年になります。この間、読書や散策、野球観戦(最近はもっぱらTV観戦)と、退職者におなじみの生活をしています。家の近くに農家とその畑が密集しているところがあるので、元気なときは、その風景を楽しみながら散策しています。自然のなかにいる自分が幸せです。やはり私は石巻っ子です。高齢のため病院通いも増えましたが、それも自然の摂理と思っています。哲学者カントの辞世の言葉は「これでよし」ですが、私の場合はそうはいかなそうです。最近、家族の勧めにより市立の小ホールでジャズの生演奏を初めて聴きました。はまりそうです。自分の身近にあるものをもっと楽しもうと思いました。
男女共学によって石高の発展が期待できます
石高が男女共学になったとか。女子学生を多く見てきた者からすれば、男女共学によって石高の発展が期待できます。野球部も女子の声援を受けて、さらに強くなるのではと期待します。コロナ感染症の拡大、その他で当分厳しい日々が続きそうです。故郷そして石高での学びを共有する鰐陵同窓会の皆様、どうぞご健康に十分留意しておすごしください。
(関西鰐陵30回 稲井中学)
法の下の平等な正義を求めて
―アメリカ学校財政制度訴訟の動向と法理に関する研究-
1 私のこれまでの主な研究
私のこれまでの主な研究は、①アメリカ学校財政制度訴訟の動向と法理に関する研究および②日本における分権・生涯学習時代の教育財政の研究です。ここでは現在も考察を進めている①の研究についてその概略をご紹介します。
2「アメリカ学校財政制度訴訟の動向と法理に関する研究」の概略
(1)アメリカの学校財政制度訴訟の経緯
アメリカ合衆国の公立初等中等学校の教育は、市長などが首長である一般行政機関とは別の、学区(school district)とよばれる住民主体の独自の行政機関が管轄し(運営管理は学区の教育委員会)、その財源も学区内の土地、家屋等などの固定資産に課税する「地方教育税」(school tax)とよばれる独自の課税を基本財源としています。こうした住民の自治とその責任(経費負担も含めて)に基づく、古代ギリシャの流れを汲む直接民主主義ともいうべき教育行財政システムは植民地時代から現在に至るまで続いており、「草の根民主主義」といわれるアメリカ民主主義を支える礎石としての、そして「民主主義の実験室」ともいわれる役割を果たしてきました。それ以来、「教育のローカルコントロール」と地域のどの子どもにも一定の共通教育を受ける機会を与えようという「教育機会の平等」とはアメリカ公教育の重要な原則となっています。
ところが、この民主主義の土台を支えているアメリカの公教育行財政システムは、基本的な財源を固定資産税に依拠しているため、教育費歳入の大きな裕福な学区と少ない貧困な学区の間では、教育費の歳入それに基づく教育サービスの量と質に大幅な差が生ずるという発足当初から財政構造上の問題を抱えてきました。特に、近年の教育費の高騰によって、州政府の補助金制度や地方教育税の改革など一連の財政改革政策にもかかわらず学区間格差は広がり、貧困学区の教育は質・量ともに劣悪の傾向を辿っています。問題は教育費の問題だけでなく、資力の乏しい学区にとって教育のローカルコントロールは幻想だということでもあります。とりわけ貧困学区にはマイノリティといわれるアフリカ糸アメリカ人が多数居住しているところから、この問題は経済的差別(財政問題)のみならず、人種差別の問題をも含む複雑で重大な問題を含むものとなっています。いわばアメリカ民主主義の根幹が揺らいでいるわけです。
そこで貧困学区の住民、あるいは学区自身が原告となり法律家・弁護士・社会学者・心理学者などの専門家・各種支援団体・政治家などの支援を得て、学区の設置責任者である州政府を相手どり、教育費の学区間格差(通常は、生徒1人あたり2~3倍の差)を生じ、それゆえ当該学区の子どもから平等に教育を受ける機会を奪っている地方教育税を主要財源とする公立初等中等学校財政制度を憲法(合衆国憲法あるいは州憲法)に違反するとして訴訟が起こされているのです。それが学校財政制度訴訟です。
こうした学校財政制度訴訟は1960年代後半から始まり、当初は合衆国憲法あるいは州憲法の平等保護条項の解釈を争点とした訴訟でしたが、80年代後半からは州憲法の教育条項の解釈を争点とした訴訟への形を変えつつ、提訴が相次いでいます。立法府や行政府を巻き込むことになる面倒な学校財政制度訴訟が相次いで提訴されていることは、それだけアメリカの学校財政の問題が重大で深刻であることの証拠です。
(2)研究概略
私の研究は、第1に、上記の2つの波の訴訟の動向と法理の内容・特徴・関連性を探ることを通して、貧困学区の子どもたちの教育機会の平等を保障する原理とその原理を実現する州の財政援助、とりわけ州の教育補助金制度のあり方を追究するものです。そして第2に、訴訟全体の法理の内容・構造・体系を示すことです。平等原理については、前半の訴訟では教育条件の平等などインプットの平等を唱える「相対的平等論」が主流でしたが、後半の訴訟では基礎学力など民主主義社会に必要とされる一定の資質の獲得を求める「教育の質の平等論」が主流となっています。教育条件を同じくしても学力など基礎学力がしっかり身につかなければ意味がないということです。私はこの2つの対立的な平等論を統一して、教育の量と質を同時に満たす実質的な教育機会の平等の原理を理論的に可能なことを示し、提唱しました。また、州の補助金制度については、多様な制度があるなかでそれぞれを検討し、貧困学区が裕福な学区と同率課税をしてもなお歳入が不十分であれば、不足額は州補助金が補い、しかしながらその使途については学区の裁量に委ねる「学区財政力均等化補助金」制度(日本の地方交付税交付金制度に近い)を教育機会の平等と教育のローカルコントロールを両立できる望ましい制度として提唱しています。まだきわめて少数の州政府ですが、そうした論での改革を試みているところがあり、その成り行きを注目しています。第2については私なりの体系化を試みました。こうした体系化により、教育機会の平等概念の体系的理解が可能となり、また違憲判決・合憲判決に導く法理の道筋が示されることにより、それは貧困学区が勝訴を得る司法戦略となりうるのではないかと思っています。
(3)まとめに代えて
学校財政制度訴訟が本格的に始まってから約半世紀が経ちました。その間多くの州で訴訟が提起され、後半の時期になるほど違憲判決が多くなっています。ただし原告勝訴の判決が出てもその後の制度改革では原告学区の歳入は増えても裕福な学区との差は依然として大きく、あるいは当該学区の子どもたちの学力はさして向上していないなど訴訟の効果を否定するような結果も多く報告されています。立ちはだかる壁はあまりにも高く厚いものです。それでも訴訟が後を断たないのは、本件原告らのように政治的経済的マイノリティにとって司法的介入がなければ問題が解決しないということを示しています。「アメリカのデモクラシーを例外的なものにしている1つはマイノリティを擁護し自由を守る、世界で最も強力な裁判所システムを持っていることである」といわれるほど裁判所には倫理的道徳的な役割が期待されているのです。本件のような複合的な問題を抱える学校財政制度問題の解決への歩みは遅々たるものかもしれませんが、「法の下の平等な正義」(合衆国最高裁判所正面入口の欄干に掲げてある言葉)の実現を求めて、これからも絶えることなく続くと思っております。
(関連する自著)
①教育機会の平等と財政保障―アメリカ学校財政制度訴訟の動向と法理―
(多賀出版、1996年)
②教育の質の平等を求めて―アメリカ・アディクアシー学校財政制度訴訟の動向と法理-
(協同出版、2014年)