佐々木保行~耽游疑考

新刊紹介:「私の見た昭和の風景〜耽游疑考たんゆうぎこう」(文芸社セレクション)

 

 

関西鰐陵同窓会副会長

 

佐々木保行(39回)

 

関西鰐陵同窓会会報令和4年号寄稿

 

 

 

私は、2019年の3月に 48年間のサラリーマン生活を終えた。長年仕事一筋といえば聞こえがいいが、子供たちと真剣に遊んだとか、旅行や食べ歩きなど家内への孝行などというものは、殆どして来なかった。その罪滅ぼしもあって、まずは近場からというわけで、家内と天橋立、琵琶湖巡り、鳴門渦潮、奈良飛鳥散策、浜名湖あたりを巡り歩いたり、宮城の姉夫婦を呼んで関西観光案内などしたりして、約半年ほど過ごしていた。

 

 

 

これからは海外にも、と思っていた矢先に、新型コロナウイルスのパンデミックで、日本中がすっかり巣ごもり状態を余儀なくされてしまった。そんなわけで、外で体を動かすのは、ゴルフの打ちっぱなしぐらいで、やっと手にした「余暇」を家の中で読書や音楽鑑賞など費やすしか方法がなく、このままでは「ボケ」が早まるだけだと思い、「ボケ防止」に何か書いてみようかと始めたのが、エッセイの執筆だった。しかし、他人が読んでもつまらない「内輪話」にならないようにするには、極力皆が(それ以上に自分が)関心を持ちそうなテーマで、しかも私が日頃考えている独自の意見(研究者でもない私ではあるが)や感想を披歴できないか、呻吟する日々だった。思えば、この自分に課した宿題は、素人の私には思いのほか難題だったが、決めた以上はせめて一冊には仕上げないといけないと思っていた。

 

 

 

それは、これまであまり子供たちや家内には語って来なかった私自身がどういう青年時代・壮年時代つまり主として昭和時代を過ごしてきたのかを残すことには、多少の意味もあるのではないか、と思ったからでもある。

 

 

 

副題の「耽游疑考」は、製造業の経理部門にいた私が30代の頃、工場の生産工程や開発現場を見て、「技術の素人が見て率直に感じた改善の着眼点」をほぼ4ヶ月に亘り行った時の 提案集の表題が「耽游疑考」だった。全く専門外の領域に、頭を柔らかくして、大胆に挑戦するという大それたものだった。当然、中には的外れや針小棒大なものもあって、技術屋たちには、必ずしも快いものではなかっただろうと思われたが、意外にも賛否両論あり、大きな反響を呼んだのは、私としてはとても嬉しかった。「游び(専門外のこと)に耽って、疑って考える」その繰り返しが、とても大事だということを私自身も認識する契機となった。(その反動で、自らの専門領域への風当たりも強くなることも覚悟しなければならなかったし、それはそれで良いことでもある)

 

こうした思索の時というのは、苦しいけれど、それだけに「至福の時間」でもあって、その経験は他に比べようもない喜びだということである。

 

 

 

この本で取り上げたのは、文学・スポーツ・囲碁・将棋・映画・料理・音楽・哲学など、本当に多岐に亘り、それだけに内容が薄いのは勘弁してもらうしかない。コロナ自粛にも飽き、あちこち出歩きたい欲望もありながらも、またぞろ性懲りも無く、「続 耽游疑考」を書こうかと、再開しかけたところである。(まさしく第二次呻吟の時代に入った) 

 表紙のカバー版画: 著者の友人 野村俊雄氏の提供 表:「天の香具山」 裏:「望郷」

 


石巻高校の先輩たちとの縁

39回生 佐々木保行

                          関西鰐陵同窓会会報令和3年号寄稿

 

まずは私の小学校時代である。私は石巻市の湊に生まれ育った。近所の「とっちゃん」は三男坊で彼の上の二人の兄たち同様、石中→石高に進学していた。私より7~8才年上の「とっちゃん」は、昭和33年のある日の未明に、北上川の向こうに見える日和山が真っ赤な炎に黒いシルエットとなって浮かび上がるのを私と二人で呆然と見ていたのを思い出す。少年時代に目撃した火事といえば、「隣の正ちゃん家」と「丸光デパート」そして「石高」である。後述の同じ近所の「ひろちゃん」が息子の高校編入のとき、石高の教頭になっていた「とっちゃん」にお世話になった、と語っていた。

 

因みに、湊に育ち、湊中ではなく石中に通う感覚は、石高ではなく仙台一高に進学することとほぼ同じであり、湊中→石高コースを自然に歩んだものにとっては、あまり心地よいものではなかったが、個人の自由であり、今ではどうでもよいことである。

ところで湊小学校の校歌は、白鳥省吾作詞で「北上川の洋々と、太平洋に入るところ、文化輝く石巻・・・」と 石高の「鰐陵歌」に出だしがよく似ていた。

 

私は湊中に通い、卓球クラブとともに、新しもの好きから「英語クラブ」に入り、7か国の少女たちと海外文通などを始めた。同時に、石巻の商工会議所でアメリカ人宣教師の教える英会話教室(聖書を英語で読む会)に毎週一回、訳も分からず顔を出していた。ある日のこと、石高から東北大に進学した大学生が冬休みで久しぶりにこの会に出てきていた。女性の宣教師が聖書の一部を引いて「なぜイエスはこう言ったのか」と問いに、暫し考えてこの大学生は「イエスはウソをついた」と答えた。宣教師は「そのとおり」と答えた。「へえ、イエスも嘘をつくんだ」となぜかこの会話は、最後に歌う讃美歌とともに、いまだに私の記憶に残っている。

 

裁判官を退官された石高の奥山興悦先輩(31回生)が、つい数年前の同窓会誌「鰐陵」に投稿された文章に、この「聖書を読む会」の思い出を語っておられた。あの時の大学生は、ひょっとして年次的にもこの奥山先輩だったのでは、と思った。(後に奥山先輩を仙台高裁に訪問した時は、この体験と結び付けられず、それきりになっている)

 

私も晴れて石高生となった。近所の幼馴染の「ひろちゃん」は一年先輩(38回生)で秀才の誉れ高く、約40分の通学時に2年間地理や世界史の問題解きに付き合わされ、あのモータータイプの暗記力の凄さに驚嘆した。勉強嫌いの私とは対照的だった。その「ひろちゃん」の友人たち(石中出身の大津幸一・佐藤保雄、湊中出身の熊谷勝義・柴山耕一、門中出身の櫻井義雄)の諸先輩と湊中学校の英語教師が提供してくれた自宅(日和山)で自主的な英会話練習に入れてもらったり、サイクリングに参加させてもらったりした。その後我々の世代で、アカデミックな雰囲気は当然のごとく薄れ、私や同期の秀才熊谷道夫君などと石巻女子高生たちとの合同サークルに拡大され、何とも甘酸っぱい高校生活の思い出となった。

 

我々「湊育ち」は、北上川にかかる内海橋を渡って繁華街に行くことを「いすのまぎさいぐ」と言っていた。つまり湊は市内であっても感覚的には石巻ではなかった。高校生になって初めて私は、「石巻人になった」と実感した。由緒ある一皇子神社や多福院、そして芭蕉が、湊の秋刀魚を書いているにもかかわらず、対抗意識か劣等感を持っていた証左かもしれない。(関西鰐陵特別顧問の色川健一君からは、それは僻み根性だ、といつも諭されることになる)

 

仙台での大学生活では、高校の先輩後輩の繋がりは殆どなく、ひたすら石高同期の連中との交友を深めたのだが、マイノリティの石高出身者は、頼れるものがなかったことにもよる。

 

高二の時の関西への修学旅行では、帰りは開通したばかりの東海道新幹線であった。この旅行ですっかり京都・奈良に魅せられ、大学は関西へと思ったのだが、諸事情で果たせず、就職時にやっと念願がかなった。

 

就職してすぐに関西在住の石高先輩とその関係の方が、歓迎会を開いてくれた。同じ会社の大先輩の渡辺寛治さん(27回生)、6年先輩の芳野健二氏(湊中→仙台一高→東北大)とその友人の佐藤さん、石川さん(お二人は仙台一高か?) そして芳野さんの弟で別の会社だが、三つ上の姉と湊中同級で生徒会長もしていた芳野靖さん(36回生)・・・寄る辺ない関西の地で本当に心強く嬉しかった思い出である。私の入社時に芳野さんのご実家(水産加工業)にご挨拶に伺ったほどで、湊では優秀なご一家だった。

 

そういえば、同じ会社に、第五代石巻高校長勝又朝頼さんのご子息(石高卒ではなく、私より10年以上の先輩だが)がおられたことも、奇遇であった。

さほど有名でもない関西企業に何とこんなに石巻にゆかりのある人がいるものだと、妙に感心したりもした。今は、恩返しの時期と心得ているのだが・・・。

 

関西暮らしも入社後わずか一年で上司に嫌われ、横浜といっても鎌倉に近い戸塚に転出して8年半、そのあとは再び関西に戻り、途中2年の宇都宮暮らしがあったものの、爾来関西にどっぷり漬かることになる(ほぼ40年)。大阪育ちの妻と結婚し、関西に住み着く運命をつくづく感じる。

 

10年前の故郷が大地震・津波の惨事(父の退職で鳴瀬の浜市に移住するために建てて住んだ実家も全壊)に見舞われ、どうすることもできないもどかしさを感じながら、そしてまた今般のコロナ禍である。

 

70才でリタイアする前から、高校同期の連中とは、関西鰐陵同窓会日程に合わせて年一回関東(熊谷道夫・畠山廣造・今野雅隆の各君)と名古屋(佐々木孝行君)から関西に来てもらい、石巻から前出の色川健一君を交えて、近江在住の膽澤文雄君らと39回生の飲み会やゴルフ懇親会をやっていたのだが、コロナ禍でここ二年は実施できていない。早くコロナが収束し、再び皆の顔を見たいものである。

古希をとうに過ぎ「わたしーは、なにをのこしただろう」と思うこの頃である。

 

                (住友ゴム工業株式会社 元代表取締役専務執行役員・元常勤監査役