関西鰐陵百年の歩み

1923(大正12年)ー 2023年(令和5年)

関西鰐陵同窓会 第1回 総会・祝賀会 集合写真 大阪市北区

昭和55(1980)年2月23日(土) 梅田新道 重慶飯店

関西鰐陵同窓会 設立40年 記念総会・祝賀会 集合写真

令和3年10月28日 関西鰐陵同窓会執行役員会  於 茨木市立男女共生センター

鰐陵(がくりょう)同窓会という会名の由来

関西鰐陵同窓会~草創期

 

野口秀敏初代校長のもと新任教師時代を過ごした

雫石鑛吉先生(国語)の存在と関西鰐陵同窓会

 

 

 平成8年1月、70周年記念事業(記念式典平成5年)の一つとして発行された「鰐陵会員名簿」と伊藤睦雄の「関西鰐陵同窓会会員録」によると、関西鰐陵草創期のメンバーとして知られている旧制石巻中学校の第1回生三浦総一郎(鹿又中学、京都光華高校)、第2回生千葉卓夫(和淵中学、下関水産大学校 教授)、第3回生片岡恒一(住吉中学 枚方市在住)と亀山亨(渡波中学、大阪工業大学教授)、7回生 川元有恒(赤井中学)、6回生 鈴木達二(石巻中学、長崎大学教授)、12回生 長崎哲夫(涌谷中学、神戸市)が掲載されている。
三浦も、亀山も、川元も、長崎も、関西鰐陵同窓会の会長(支部長)として草創期ご尽力された。

 

関西鰐陵同窓会の草創期のメンバーの精神的な支柱として、旧制石巻中学校草創期、野口秀敏初代校長のもとで新任教師時代を過ごした雫石鑛吉(国語)がいた。大阪府池田市に在住していた。令和5(2023)年総会・懇親会~母校創立百年と関西鰐陵百年を祝う!~に時点で、雫石鑛吉の関西における所在を知る会員はいなかったが1年経って、百周年記念関西鰐陵会報の特別号が一次編集原稿が完成したその日に、偶然資料が出てきたのも奇遇だった。

 関西外国語大学教授で、大阪池田市室町に在住歴があった。

 

 雫石鑛吉(国語)は平成5年編集発行の創立70周年記念誌「濤聲」の「暁角喨喨 歴史を築いt教職員の声」の8人の教職員の中に入って「鰐陵回顧」という当時の思い出を語っている。旧制石巻中学校創立の野口精神を最も身近で知っていた雫石鑛吉が、関西鰐陵同窓会の草創期に存在していたということの意味は極めて大きかった。


「関西百年!」のとりくみで、この事実と意義が共有されることとなった。 

 

 

 

 平塚博男(23回)・伊藤睦雄(26回)

 

このうちの大阪府・京都府在住者が、昭和55(1980)年2月23日第1回の「同窓の集い」開催に「先輩」として関わり、事務局の平塚博男(23回)と伊藤睦雄(26回)の両世話人の関西鰐陵同窓会の組織づくりを支えていくことになったのである。

 

 

 関西鰐陵有志の集い開催 1980年2月

 

 

 1.昭和54年(1979年)12月30日開幕の第59回全国高校ラグビー大会に石巻高校が出場、山口農業高校と対戦。応援に駆けつけた在阪の有志により集いを持ちたいとの声が寄せられ、「同窓の集い」が呼びかけられた。世話人は、平塚博男(23回)と伊藤睦雄(26回)であった。

 

伊藤睦雄は、寄せ集めた音信(消息)と名簿を頼りに仕事の合間に、同窓生の勤務先や自宅を尋ねて歩いた。彼との出会いなしに関西鰐陵同窓とのつながりは無かったと皆、こもごもいう。40年以上前のこと、回生の皆さんは若かった。

 

現在、常識通念となった「失われた30年」の始め迄、後10年、関西は見せかけの絶頂を迎えていた。マネーゲームが始まっていた。バブルで株価も上がり景気のいい時代だった。

 

2.昭和55(1980)年2月23日 梅田新道の重慶飯店において関西在住者32名が参加して第1回の「同窓の集い」が開催された。当時の関西鰐陵同窓会の事務局が大阪市北区梅田の大阪駅前第3ビル18階の平塚梅田循環器クリニックにあり、この会場は事務局直近の会場であった。

 

同年11月15日には、2回目の同窓の集いが南区河原町の鳥よしで開催、26名が参加した。

 

これが現在の関西鰐陵同窓会の前史である。ズーズー弁に安心できる空間だった。

 

 

関西鰐陵同窓会名簿作成発行~沖縄・九州・四国・中国地方・関西圏・東海・北陸を網羅  

 

 

1.旧制石巻中学校と新制宮城県石巻高等学校卒業生の鰐陵同窓会名簿が初めて作成されたのは、昭和63(1988)年12月だった。

 

2.平成5(1993)年の70周年記念式典とそれに続く記念事業(鰐陵会館の建設など)の一環として、本格的な同窓会名簿が平成8(1996)が作成された。

 

3.これを受けて、関西事務局の伊藤睦雄が関西鰐陵同窓会会員録の編集と発行に着手した。伊藤がこの実務をほとんど行った。

平成8年7月 187人、平成13年170人、平成17年2月総合版、平成17年4月148人、平成24(2012)年6月16日に、総合版会員録を発行し、関西鰐陵同窓会事務局で連絡可能な会員は175人、転勤、物故、転居195人とした。

 

4.平成7年5月27日(土)に、関西支部から分離独立して東海支部、東海鰐陵同窓会が結成されたが、それまでは東海支部51名分の名簿も伊藤は、名簿化していたはずであるから、約240名分の名簿を管理していたはずである。

 

5.伊藤と関西草創期のネットワークのメンバーが同級生や部活動、中学校、教職員と教え子、同郷、親せき、兄弟などあらゆるつながりを生かして丹念にあつめた貴重な資料ということになる。稀有なことに、伊藤たちは、沖縄、富山を含むすべての点在のところにも関西鰐陵同窓会総会の案内を送り始めたのである。それを今日まで関西鰐陵同窓会会員としてきた。個人情報保護で活用はシビアになり、これが同窓会活動展開上のネックとなっている。

 

 

会員は、沖縄、鹿児島、熊本、大分、長崎、福岡、高知、愛媛、香川、徳島、山口、島根、鳥取、広島、岡山、兵庫、大阪、奈良、京都府、滋賀、三重、愛知、富山、石川、神奈川などに居住していた同窓生であった。

 

実際、事務局は連絡していたのである。東京以西は、支部がなかったということである。それを関西が連絡していたということだ。

 

6.「東海支部結成にあたっては、関西支部の平塚博男事務局長と設立支部総会開催への実務指導を行った生みの親ともいうべき伊藤睦雄が駆けつけた」と、29回高瀬禮次郎が本部会報「鰐陵」1995(38号)支部報告で、感謝のことばを残している。

 

大災害時代30年の到来と同窓会活動

 

結成に際しては、その前年の1994(平成6)年に名古屋市内(ホテル・サンルート名護屋)において、関西鰐陵同窓会第16回総会・懇親会を開催して2年がかりで支部結成を援助した。30年前、日本経済は活気に満ちていた。名古屋圏も大きな経済圏を形成していた。今でいう「失われた30年間」の入り口、バブル崩壊の瀬戸際に立っていた時代だ。会員も若かった。

 

◇この年の1月17日に阪神大震災が勃発し大きな被害を出している。

 

◇この16年後、2011年3月11日 東日本大震災と大津波、福島原発事故が起こった。関西鰐陵同窓も、必死になって救援・救出に帰郷した。

 

◇2018(平成30)年16日(土)第40回関西鰐陵同窓会総会の翌日、大阪府北部地震が勃発した。

 

◇2019(平成31・令和元)年 関西鰐陵設立40周年を終えたその年の12月から新型コロナ感染症が起こり始め、2022年、2023年、2024年と鰐陵同窓会関係の総会・懇親会、交流会等の対面実施は自粛となった。

 

繁栄から没落への30年間、直近3年間の新型コロナ禍に至る大災害の連続は、同窓会活動にも大きな影響を与えた。人的交流と経済活動に打撃を与え続けている。関西圏も、巨大なだけに打撃と影響は大きい。新型コロナが与えた影響は甚大であった。会員と会員の家族も大きな被害を受けている。


鰐陵の絆はいのちの絆

 

それだけではない。関西圏を除く地域は、退職し高齢化で、一部は宮城に帰る者もいるが、多くは地方に定着している。物故者も増えて遺族から葉書やFAX,あるいは直接に訃報連絡があることもある。遺族から、関西鰐陵同窓会から送ってきたものをご仏壇にお供えしていますと言われることも多い。奥様や息子さんと話をすると石巻や鰐陵の話で長話になる。

鰐陵の絆はいのちの絆なのだと心底思う。

 

多くの方が今は点在となっているが、現在も九州、四国、北陸までも会員、客員がいて定期的な連絡がある。福岡県久留米市には、母校と市内高校で国語教諭だった三橋和正先生がご健在で、事務局と緊密な連絡が現在もある。「関西百年!の総会」案内にも返事をくれた。
令和3年度の関西鰐陵同窓会・会報に寄稿文を寄せている。37回・38回の大内謙、加藤憲雄、菊田正克、和泉耕二の担任・恩師でもあった。94歳の恩師との鰐陵時代から濃密につづく絆も、いのちの絆だ。

 

島根県松江市の会員から、令和5年度の本会運営委員が選出されている。きちんと立候補をしていただいている。赤間一仁(52回、島根大学教授)である。石川県金沢市の佐々木志郎(36回、元東京書籍)からも通信費や協賛広告募金が入金されている。四国の南国市には、杉山和弘(58回)が、県立高校野球部の指導者として活躍している。事務局との連絡もご協力もいただいている。広島市在住の小畑聡(66回、マツダ)も同様である。

 

雫石鑛吉先生から「旧約イザヤ書」

「見よ、私は新しいことをする。それはやがて起こる」

 

 

雫石先生からのご遺言

私は少し、昔を語りすぎた。そろそろ現実に返ろう。では、またさようなら。

 

「あなたがたは先のことを

 思い出してはならない。

 古のことを考えてはならない。

 見よ、私は新しいことをする。それはやがて起こる

 あなたがたは それをしらないか」

 

「関西百年!」「鰐陵創立百周年」は、新しい関西鰐陵同窓会における鰐陵同窓会の繋がり方、ネットワークづくり、活動スタイルを、若い世代の斬新な頭脳と感性で創出する機会、新しい時代の始まりです。

 

 

 

 

 



関西鰐陵百年の歩みと思いに寄せて

「70年周年記念誌 濤聲」                                     ~「二・四体制」座談の意義


 

 

平成5年に発刊された「70年周年記念誌 濤聲(とうせい)」は戦後の新制高校の同種の記念誌と比較して、全国に許多ある名門と言われる他校のそれの追随を許さない。

この「70年周年記念誌 濤聲(とうせい)」の内容と水準を超えることは難しい。

 

質と量、教育と文化創造という中等教育機関としての歴史的使命を見事に表現し、その編集者諸氏と寄稿者諸氏の精神と魂、深い教養と学識の深さ、社会的影響と活動領域の広さ・深さについては、驚嘆の思いを懐かざるをえない。

 

当時の校風・学風を好み誇らしく思いそれに徹底的に傾倒した生徒たちも、それらを徹底的に嫌い反抗した生徒たちも内在していた。もちろん大正時代草創期の生徒たちと、戦中・戦後昭和20年代前半世代の生徒たち、昭和30年代から40年代の生徒たち、そして現在の男女共学化の生徒たちの母校に対する意識や思いはかなり異なるであろうから、短絡的には論評できない。

学校外からみた石巻高等学校像も時代につれて変遷していったであろう。

 

しかし、教職員と生徒たち、それぞれの葛藤と相克の中で40年代から50年代にかけてあらたな鰐陵生徒群像が形成されたいったことが、「70年周年記念誌 濤聲(とうせい)」の96頁から100頁にかけての座談会「二・四体制 ひとつの進学対策」(ここからリンクする)でわかる。

 

座談会に参加して議論や論点整理に関係した教職員(4人)、元生徒(7人)の議論や報告は大変興味深いものだった。社会現象としての進学偏重教育に石巻高校が巻き込まれていく状況とそれを克服する過程を率直に語っている。もちろん、それを克服しきったかどうかは別だが、こじれにこじれきっていた状況を少しでも改善するために、進学校でありながら進学対策を視点を変えて転換するという問題意識をもって、二・四体制にけりをつけたことは、鰐陵の歴史にとって良いことだった。

 

70年史誌でここまで自らを総括できる高校と同窓会は稀であろう。

この座談会は、このHPの右上のナビメニューで掲載したい

 

戦後民主主義と民主教育の不徹底さはあいまいさを多く残し、毎日新聞「教育の森」で指弾された「日本の教育の現実」は、石高においてもネグレクトと学校批判を内包させていた。昭和30年代後半から、40年代にかけて、二・四体制廃止や服装自由化、生徒会役員選挙の民主化(リコールや3回のやり直し選挙)等々、それらはいろいろな形で噴出していった。

生徒会会長経験者が、当時の状況について率直な話をしている。なかなか面白い。座談会参加者はそうそうたる人たちだった。

 

一方で、生徒たちの願いや学校体制民主化と民主主義的な教育を内実化させたいと願う教師たちの存在があり、昭和30年代から40年代にかけてあらたな鰐陵生徒群像を形成する自治的な営みを援助していったことが、「70年周年記念誌 濤聲(とうせい)」座談会は、語っている。

 

座談会に参加した武田勍さん(36回生)~元会報「鰐陵」編集長はこう語っている。

「私たちの高校三年間は、一人ひとり感じ方が違うと思いますが、非常に暗い、陰鬱な感じで生活していました。36回生の同期の者が集まったとき、二・四体制のことを話したら、『ああ、そうか、やっぱりな』とか、『どうりで暗い時代を過ごしたわけだ』といった反応が返ってくるんです。」「今の高校生たちがうらやましい」

 

岩渕浩元教諭(数学)「38回生が卒業する時点で猛反対が起こった。」

 

座談会からは話題が離れるが、当時は以下のような事件もあったことを仄聞ながら補足しておく。

 

二・四体制の二年目には、「37回生の生徒が1年生の時、学校体制・指導体制に抗議・反抗して3か月に及ぶ通学拒否をする」という事件があった(横山大進教頭時代 国語 昭和32年~昭和38年)。郡部出身のこの生徒は、今でいうパワハラ教師の配置転換を求め続け通学拒否をしはじめた。彼の母親は恐れ多いことで、途方に暮れていたという。

 

生徒はみずから山学校事件と言っていたそうだが、大海原の見える山腹でドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいたという。オーイ!オーイ!と弟を探す石女生だった姉の声で、山学校は終わって自宅籠城となり中学校時代や高校の担任がやってきては、梃子でも動かない教え子の相手をしていたという。しかし、後でわかることだが、教師との間の生涯尽きぬ信頼は、こういう営みの中で育てられていったのだろう。この生徒の母への当時の担任の手紙が60年たった今も残っているという。

 

のちにかの生徒は学生運動に身を投じ大都市部に行き、世界史の高校教員として赴任した。やがて1970年代~90年代にかけて高等学校の教職員団体(1万人)の副委員長・教育文化部長となった。大都会には鰐陵のように、それ以上に名門といわれる進学校があまたあった。運動の高揚期には6万人の教職員団体の常任議長、さらに教育研究集会の企画や運営の責任者として、その地で1万人を超える全国的な教育研究集会を成功させる原動力になった。山学校から20年たっていた。

 

二・四体制打破についての座談会は、子ども・生徒の人権や可能性、それぞれが持っている能力をどう引き出すべきなのか、どうしたら~どういうシステムなら個や学級集団の力を最大限引き出せるのかという議論を含んでいた。

 

もちろん二・四を廃止したから問題が解決するというものではなく、進路対策には、教育課程改革と教員定員の充実、学級編成の工夫、すし詰め学級の解消が当時は必要だったはずだ。生徒と生徒の進路を複眼的に見ることのできるような教育環境が求められていた。

 

それらは宮城県教育委員会の学区制度改革とも深く結びつき、会報「鰐陵の県の制度改革への歴代の同窓会長、佐藤信男さんや佐藤佑さんの県の改革構想を度々批判していた。それらの論点は鋭く、仙台一極集中と中央集権化に警鐘を鳴らしていた。男女共学問題とも係わり、母校を含む宮城県内のそれぞれの高校の現在のたたずまいがあるのだと言うこと理解したい。

 

母校の職員会議ではそういう議論が、喧々諤々かわされて、そのうえで生徒たちの納得も得たのだろうと、座談会と渡辺仁作元教頭の記事を読んでほっとした。

 

鰐陵同窓会も、教職員も、PTAも、生徒会や生徒たちも、さすが我らの宮城県石巻高等学校だ。

 

 

座談会の背景に戻るがー

当時は、上級生による始業前の電通、汽車通、市内に分けた怒声をともなったしごきも反発を呼んでいた。もちろん率先してこの風潮に馴染んでいった生徒もいた。応援団指導にいきがいを感じる生徒も少なからずいた。下火になりつつあったが鉄拳制裁の風潮もあった。教師の間にも専制と民主が混在し葛藤していたことは疑いない。中学校にも、高校にもあった。

 

山学校事件のこの生徒は、中学校時代、小学校時代といびつな教育環境の中で、今でいういじめパワハラ、民主教育の建前と不徹底という葛藤を受けて育った。高校に入るころには、内面的には暴発寸前であったという。

考えてみれば、日本国中、焼け野原となって教科書を住ぬりしたっり、学徒出陣動員などでのGHQの戦争犯罪追及を恐れ、当時の文部省などが学籍名簿や学徒の招集名簿などを焼却した時代から10年余りしかたっていない時代だ。戦後民主主義の第1世代には、まともと感じられるはずがなかった。

 

高校でも、管理主義や教師と上級生のしごきに反発して学校から大脱走して、洋画映画館や喫茶店でうっぷんを晴らす生徒もいた。武田勍さん(36回生)も座談会で触れている。

しかし振り返って考えると、こういうことをできた生徒は、内面の自由を守り抜き、幸せな高校時代を送ったと言えなくもない。真面目な生徒には申し訳ないが、今では笑って話せる。

 

「戦中世代が新制石巻高等学校をつくり、37回生は戦後世代1期生の生徒だった。1期生にはなじめない封建的な気風が学校には残っていた。毎日新聞の『教育の森』が学校現場の理念と実態の矛盾を追及していた。」

~日本社会が、そういう時代だった。

 

20年代後半の石巻高等学校には、関西鰐陵同窓会総会講演や会報で水泳部OBの三浦弘明さん(28回)や清野万平さん(23回)がおっしゃっているように、戦前システムが崩壊し、新たな秩序や制度に向かう間隙を縫った自由さや放縦さがあった。当時の高校生活で痛快な話が山ほどあった。ある人たちから見ればいい時代だった。いい時代をつくってきた鰐陵健児も多かったのである。

 

 

 時代は、日本の社会や教育が、勤評や全国一斉学力テスト、文部省と学校現場の対立、おいコラ!警職法、60年安保条約改定と社会の対立が激しくなり、戦前に逆戻りし始めていた。あらたな秩序や制度化を求めていた。進学対策にもそういう社会の圧力は影響していた。

 

 その時、生徒たちの怒りや不満を受け止めてくれる担任や生徒会の担当教師、話を聞いて相談相手となった少なからぬ教師がいたし、優れた指導力を持った教師たちがたくさんいた。

 

 

 山学校事件に遭遇した時代の横山大進教頭の後任者で、二・四体制廃止への方針をすすめた渡辺仁作元教頭は横山教頭と同一教科で(国語 昭和38年~昭和44年)であった。同記念誌44頁 (ここからリンクする)でこう述べている。 *この生徒の担任も国語であった。

 

「私が着任してまず手がけたのは、教職員の服務規程の改正と二・四体制の廃止であった。

 始業前30分勤務、放課後30分退勤というようなごく素朴な明治憲法式の服務規程をもっと精密に合理的にすることであった。二・四体制は、体育関係と一般教科の担当者の間に不満と怨嗟の声が満ち満ちていた。・・・廃止にはなかなか抵抗が強く容易ではなかったが、・・・二年目にして廃止にこぎ着けた。」(渡辺教頭・昭和38年4月から同44年3月在籍)

 

彼は、当時の教師群像については、こう述べている。

「各教科にそれぞれ名物先生がいて、指導に自信と信念があり、並々ならぬ見識と情熱の持ち主たったこと、校内が常に生き生きとして活力が漂っていた。」 *ここで名物先生の名前をあげている。

 

 確かに、渡辺元教頭の指摘は、鰐陵健児が卒業してからの共通の話題となり、生きるバックボーンとなってきた教師群像と、一部は一致しないが、大方一致する。

 

 そういう教師たちの存在が、卒業生の中に一方で在学時の心の傷と非和解の思いを少なからず残しつつも、現在に至るまで野口秀敏初代校長による草創期の校訓精神を不易なものとして、それらを理想ともし、大志ともして、卒業生それぞれが、その魂と人生に刻み込んで生きてきたのではないか?と、今となれば思う。

 

母校百周年の歩みと思いを、そういうものが内在した百年として振り返りそれぞれで総括したい。

 

母校を巣立った鰐陵生は、「質実剛健・進取独創・自ら進運を開拓すべし」という校訓と「至誠一つに貫きて、我が運命をひらかばや」という土井晩翠の鰐陵歌の詞(ことば)、宮城県石巻高等学校校歌「真実をば 道の標と 心一筋 いそしみ行かん」「鰐陵の その名かざして 若い生命よ 競ひて起たん」「とこしえの 平和祈りて 母校の栄誉 輝き増さん」を脳裏に刻みつけながら、生きたのである。

 

関西にも多くの名門高校があるが、それらの校歌にくらべても、浅野正蔵氏(5回生)の作詞した石巻高校の校歌はすぐれて格調が高い。1989年(復刊32号)特別寄稿「校歌について」を書いている。何故すぐれて格調が高いのかが理解できる。浅野正蔵さんも母校の教諭であったが、その作詞構想は奥が深い。この校歌は全国に冠たるもので鰐陵の誇りである。

(特別寄稿にここからリンクする)

 

 そして この関西鰐陵同窓会、各地の鰐陵同窓会において、われら鰐陵健児は、この一点で相和し一体となるのである。

 

作曲家の和泉耕二さん(38回生)が、関西鰐陵百年を祝す!祝賀総会にあたり、校歌、鰐陵歌、第一応援歌に編曲をつけてくれた。テノール歌手の鹿岡晃紀さんが祝賀セレモニーで歌う。

 

 さらに望郷の思いは、石田邦彦さんと和泉耕二さんの「石巻・わがふる里」の石巻と日和山、あの学び舎を歌うあの美しい情景で包み込まれるのである。

 

2011年の東日本大震災と大津波の後に、石田と和泉は、大阪音楽大学の教職員・生徒と共に、被災地支援の活動の中で、この歌を被災地に広め、大いに被災者と現地、同窓生、関西の鰐陵回生を励ましたのである。

 

 風に舞う 桜の花に ひとときの心 まどろむ

坂道で ふと振り向けば 町並みも 今は花模様

 

この町に 生まれて育ち いくつもの 山々を行く

花 花 満開の花 石巻 日和山 わがふる里

 

夏の子が 水辺で遊ぶ 釣り人も のどかに憩う

空に咲く 大輪の花 胸踊る 夜空の仕掛け

 

この町に生まれて育ち 時を経て 豊かに生きる

 

河 河 悠久の河 石巻 北上川 わがふる里

 

 山にあり 田の中にあり 思い出の あの学び舎よ

それぞれの 過ぎ去りし日々 振り返る 四季の絵の中

 

この町に 生まれて育ち 先を行く(逝く) 友びと思う

 

夢 夢 青春の夢 石巻 熱き友 わがふる里

 

夢 夢 青春の夢

 



母校 宮城県石巻高等学校創立70年記念誌より、百年の歩みを写真で探る 掲載中 

旧制石巻中学校とは何であったのか?そして石巻高等学校源流は?~初代校長 野口秀敏


               70周年記念誌より


     阿部康二さん(鰐陵47回生)=日高けんの小説 

             金華山黄金伝説

     日本古代史再現、百済と日本リアルな歴史紀行

     聖武天皇と涌谷の金山~女川・鮎川、そして牡鹿・

     石巻紀行、医科学者が描く日本の古代史!   


石巻・わがふる里

和泉耕二~音楽と詩情の世界

 

この曲は、2011年東日本大震災時に大阪音楽大学副学長であった和泉耕二教授(38回生)が、郷里である石巻に想いを馳せ、石田邦彦氏の詩にのせて作曲したものです。

 

 You Tube 「石巻・わがふる里」の映像は、昨年末に開催された「大阪大学・大阪音楽大学ジョイント企画 第一回 待兼山クリスマスコンサート」でのクラリネット・オーケストラの演奏収録音源に、同学学生が石巻を訪問した際の記録写真をイメージとして使用しています。

 

大阪音楽大学の音楽堂での正式の演奏会の映像も、すばらしく、同じYou Tubeや同大学HPで見ることができます。


石女、市女高、石商~嗚呼!石巻いしのまき 青春賛歌


白石裕~京都大学で学び、そこで教える~教師人生(30回生)

                                                                         編集構築中!


近江俊秀の世界~古代道路


松江通信-赤間一仁(52回生)

 

松江通信第1

 

関西鰐陵同窓会の皆様、52回生(大谷地中)の赤間と申します。現在島根県松江市にある大学法人島根大学生物資源科学部に勤務しております。当地に赴任してから早30年になります。後4年で定年退職を迎える年になりました。石巻高校時代は美術部に所属しており、顧問はラグビー部と兼務の橋本先生でした。

 

母校を卒業してからの軌跡を手短にお話ししますと、1浪をして1981年に北海道大学(理学部生物学科)に入学し、卒業後に同大学院理学研究科(谷藤茂行教授に師事)に進学しました。修了後、総合研究大学大学院大学(愛知県岡崎市・基礎生物学研究所)に19894月に入学し、モデル植物シロイヌナズナの形質転換系の確立で学位(理学)を取得いたしました(岡田清孝博士に師事)。その後フリードリヒ・ミーシャー研究所・B. Hohn研究室(スイス・バーゼル)に1年間留学し、19924月に島根大学に赴任しました。専門は植物遺伝子の機能解析とその成果を応用した農作物(特にイネ)の品種改良の実践です。

 

 先月3月に所属する学術学会の大会である第64回日本植物生理学会が315日から17日まで仙台で開催され出席いたしました。実は震災の年の3月中旬に同じ学会が仙台で開催される予定でしたが、言うまでもなく大きな混乱の中で中止になりました。あれから12年後の今年、コロナ禍が収束しつつある中、仙台でこの学会が開催されたこと、当時の学会関係者のことを思い出すと、大変感慨深いものがありました。

 

学会の後に実家がある旧河北町に帰省いたしました。同じ時期に関西鰐陵同窓会の加藤憲雄会長も石巻に滞在し、大川小学校の震災遺構を訪問されたことをご連絡いただきました。震災以降帰省の度に大川小学校には足を運びます。旧河北町の学区は飯野川、大谷地、二俣、大川地区の4つ分かれており、旧河北町の住民にとってどの地区も互いに身近な存在でした。現在大川小学校は震災遺構として整備され、多くの見学者の訪問があります。慰霊碑の前で手を合わせると、多くの子供たちや教職員の無念さ、大切な子供を失った親御さんたちの嘆きがひしひしと伝わってきました。

 

もっと早くに関西鰐陵同窓会に加わり、島根県、松江や山陰地域のこと、赴任してからこの30年間の大学の変遷(統合、法人化、大学改革、ガバナンス強化など)について情報発信をすべではなかったかと反省しきりです。このような場を提供していただきましたことを大変感謝しております。これから定年までの4年間で「松江通信」が何号まで到達するのか分かりませんが、松江の文化歴史、今大きな帰路に立つ日本の大学のこと、今進めている研究の成果などについて発信できればと願っています。

 

 大分春らしくなってきましたが、季節の変わり目です。関西鰐陵同窓会の皆様におきましてはくれぐれもご自愛ください。

 

 

島根大学生物資源科学部教授・赤間一仁(52期生)


佐藤逸人-神戸大学工学研究科 建築音響学(68回生)

工藤芳幸-子どもの言語・臨床発達心理学(68回生)